時は戦国時代、豊臣秀吉『最後の大戦』が、小田原北条攻めです。
1590年、当時の都である京都に上洛し西日本を平定した豊臣秀吉、その天下統一を阻むために最後まで対立していたのが、関東の覇者たる北条氏でした。
 
関八州240万石を治めた大大名の北条氏、当時の小田原城主は北条氏政(左の画像)・氏直親子で、東北の雄である伊達正宗とは同盟関係でした。
地元の歴史研究家の中には、北条と伊達の結びつきに、大きく関係していたのが『歌舞伎の市川団十郎と、ういろうの薬売りである。』と、唱える方もいらっしゃいます。
確かに、国境の取り締まりが特に厳しい頃ですが『歌舞伎と薬売り』なら、その取り締まりでも、とがめられることは無いと思います。
なにせ、市川団十郎(ある記述では30年ほど時代がずれる)は全国的な大スターですから、どこでも地方公演ができたでしょう。薬のういろうも全国的なヒット商品ですから、その薬売り(店売りだけだった、との説もある)なら、どこに行けても不思議はないですネ。
もし、市川団十郎とういろうを、『間者として』全国からの情報を集めていたとしたら面白い、当時の小田原北条氏だけに、なるほど、と思わせちゃうのでしょう。
北条と同盟関係にある伊達正宗が、豊臣秀吉からの『小田原攻め参戦』に対する再三の呼び出しにも応えなかったのは、『北条の次は俺か…』との思いも有ったでしょうし、『北条が立てば俺も立つぞ!』の思いもあったのでは・・・
『如何せん21万の敵ではどうにもならん』と、思ったかどうか、参戦しました。
その時の衣裳が死装束だった、としたのはNHK大河ドラマで、かなり有名です。
 
豊臣秀吉が、全国の大名を従えての『小田原攻め』は、その総数21万人(推定)とか。
これだけの人数と、それに見合う武器弾薬を揃え、石垣山に一夜城を築き、腰を据えて取り組む用意周到さから考えると、そこからも小田原北条氏の大きさがうかがえます。
その関東の雄と東北の雄が手を結び、他国からの侵略を防いでいたのですから大変です。
100カ所に及ぶ城々に兵を籠らせ籠城作戦に出る北条氏、それに対し、一つ一つの城を大群で包囲をして攻める秀吉軍。 時の勢いの違いか・・・