秋葉権現は、元々秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏集合の神です。
明治の神仏分離以前は、秋葉信仰が全国に広まり、全国各地に神仏混淆の分社として、秋葉大権現や秋葉社が多く設けられました。
火事の多かった江戸では数多くの『秋葉講』が結成されたそうで、その数は何と全国で3万余りとか、『お伊勢参り』にも匹敵するほどに『遠州秋葉参り』が盛んだったそうです。
しかし1868年、明治政府より『神社とお寺を独立のものとする』神仏分離令が発令されました。全国に設けられた秋葉権現や秋葉寺は、それぞれの地域の事情により廃されてしまい、当時の国家信道『秋葉神社』に強制的に改組されてしまい、『神・仏』は、独自の道を歩むこととなるのです。
 
小田原の秋葉山量覚院は、遠州秋葉大権現の流れを組むもので、全国でも数少ない修験宗の寺で、相模の国における修験者(山伏)の中心的な存在です。
 
 
遠州秋葉大権現は、神仏分離・廃仏毀釈で秋葉神社に強制的に改組されてしまいましたが、秋葉山量覚院はそれを免れ、当時のままその信仰が続いています。
今では数少ない『神仏混在』は、自然崇拝に元なす日本古来の信仰と真言密教が融合したものですが、開山当時には、既に『富士山』と呼ばれていました。
おそらく一月坊竺禅が秋葉山量覚院を開く際、小田原城主・大久保忠世から拝領し、山の修験者(山伏)が崇拝し、修行を続けてきたものだと、推察するものです。
 
次回は、時代を少しさかのぼり『太閤秀吉の北条攻め』  乞う、ご期待!!